江戸時代の1847年5月8日に長野県を中心に発生した善光寺地震。
関東大震災をはじめとした現代の災害と違って、昔の馴染みの薄い災害ですが、
・天然ダム決壊で深さ20mにも及ぶ大洪水が発生するも、監視避難態勢が奏功し洪水による死者はわずか。
・迅速な初動、応急対策
・デマ拡散防止
・帰宅困難者対策
など、現代の我々のお手本になるような、非常に優れた対応がされました。
現代の我々にも、是非伝承されるべき災害と思います。

〔 目次 〕
1.地震の概要 規模や震源断層など
2.被害状況 災害形態のデパート。連鎖的な複合災害が多発。巨大な天然ダムと大洪水
3.優れた初動と初期対応 善光寺地震で際立つ特徴
4.共助
1.地震の概要
・1847/5/8(新暦)の夜に発生
・推定マグニチュード 7.4 (文献によっては 7.3)
・推定最大震度:7
・活動断層:長野盆地西縁断層帯のうち[飯山ー千曲区間](断層帯の主要区間)

この断層帯の[飯山ー千曲区間]は断層帯の主要区間で、活動周期が 800年~2500年 程度とされます。1847年の地震からの経過年数は178年と比較的浅いため、今後30年間での発生確率は低いとみられています。
ただし、[飯山ー千曲区間]の南に位置する[麻績区間]は活動履歴が不明なため、安全側で想定するならば「今、地震が起こってもおかしくない」との立場に立って備えるのが妥当と思います。
2.被害状況
この地震の特徴として、津波以外のあらゆる災害形態が連鎖的・複合的に起こっていて、さながら災害の見本市のような地震です。地震が原因で水害(洪水)まで発生しています。
地震全体での死者8,600人強、全壊21,000軒
※人口150万人超の神戸市を襲った阪神・淡路大震災での死者数は約6,400人。それに比べ、善光寺地震は人口が少ない江戸時代の地方部でこれだけの死者数が出ていることから、極めて激烈な被災強度だったことが伺えます。
地域社会に与えたダメージは現代の災害の比ではなかったかもしれません。
①家屋倒壊(圧死・窒息死) ⇒ 火災
善光寺の門前町であった現在の長野市中心部では、3日間にわたる火災で 2,000棟以上が焼失。
※倒壊家屋に閉じ込められつつも無傷で一命を取り留めた人も、火災により大勢生きながらに焼死した模様です。
【教訓】倒壊家屋に閉じ込められないことが重要
R6能登半島地震でも息子は屋外に脱出したものの母親が倒壊家屋に閉じ込められ、母親が助けを呼ぶ声が聞こえるも消防も警察も来れず。息子だけでは救出できず、火災が迫り息子は母親を残して避難せざるを得ず、母親は生きたまま焼かれて焼死。目の前で見殺しにせざるを得なかった息子は一生の重いトラウマを抱えるという悲劇がありました。
地震の度に、倒壊家屋に閉じ込められたまま火災に呑まれたり、津波に呑まれたりする悲劇は繰り返されます。
対策としては耐震性の高い家屋に住むことが一番ですが、経済状態等により誰もがすぐにそのような家に住めるとは限りません。次善の策として、耐震性の低い家屋の1階に居る時は「テーブルの下に隠れろ」との常識がいつでも正しいのか? 屋外に脱出するほうが生存確率は高まるのではないか? と見直す必要があると考えています。
カタカタ揺れ始めた時、様子見せずにすぐに外に出れば生存確率が上がるはずです。能登半島地震では初動から揺れが最大になるまで十数秒。ケースバイケースですが、十分逃げ出されることも多いはずです(事実、その息子をはじめ屋外に逃げた人はいた)。
屋外に出る瞬間に頭上からの落下物(瓦や窓ガラス)に気を付ければよいと思います(そもそも、揺れが大きくなる前に脱出できれば、物が落ちてくることもないです)。
② 山の土砂崩壊(山腹崩壊、地すべり地の崩壊など) ⇒ 土砂が川を堰き止める天然ダムが発生 ⇒ 堰止湖の水位が上がってダムが耐え切れなくなり決壊 ⇒ 下流に洪水
山の崩壊は全部で4万箇所以上。天然ダムは90箇所以上。
■虚空蔵山の大規模崩壊と天然ダムによる河道閉塞、そして決壊での大洪水

- 崩壊で2村が埋没(今でも崩壊地中央の池に沈んでいる)
- 崩落した土砂が犀川を堰き止め、堤体の高さが65mに及ぶ巨大な天然ダムが出現。
上流側十数ヵ村が水没や浸水。 - 貯水量3.5億m3に及ぶ巨大堰止湖が出現。地震後16日目から越流が始まり、19日目に決壊。
- 決壊による洪水は最も激しい箇所で水位20mに及び、31ヵ村で被害。松代藩は監視・警戒態勢を引いており、決壊時に陣鉦や半鐘で知らせた。その結果、この大洪水による死者はわずかであった。
【 参考にしたい点 】
- 河道閉塞する天然ダムの出現と決壊による洪水は頻繁にある災害形態ではない。しかし、地すべり多発地帯であることもあり、その稀な災害形態の危険と対処を知っていた。
自然と共存する知恵と災害知識が地域でしっかりと伝承されていた。 - 伝承を活かし、監視・警戒態勢を敷き、住民も避難できる態勢を整えていた。
3.優れた初動と初期対応
被災の中心部であった松代藩をはじめ被災地諸藩や幕府直轄地の代官所などの行政組織が、被災直後から迅速かつ的確な対応を行いました。
① 情報収集、情報発信の迅速さ
- 松代藩主真田幸貫自身による被害調査
藩主も被災して避難所生活を送りつつ、被災地各地の被害調査にお殿様自ら赴いた。
【行政トップの実感を伴った被災強度把握が重要】藩主自らが被災の深刻度を体感したために、迅速かつ的確な対応指示が実現したと思われます。 - 迅速な情報収集と情報発信
松代藩では発災2時間後には江戸に向け第一報の飛脚を手配しています。また、翌々日には既に奥地の天然ダム決壊による洪水の危険性を把握していて、この事を幕府への被害報告で発信しています。
このことは、無線や電話などの通信手段もヘリなどの移動手段もなく、天然ダムが発生するような奥地への通行も困難な中で、驚くべき速さであったと言えます。
【平素からの連絡・報告習慣が活きた?】
このような迅速な情報取り扱いが可能であった要因は明らかではありませんが、以下のことが推測できるのではないでしょうか?
当時は自動車も鉄道もないため、奥地などへの往来も徒歩や馬が当たり前でした。このため、災害で河川沿いの交通が寸断されても、山越えの往来などは慣れた活動として平素と変わらず出来た可能性があります。
また、当時は参勤交代制度により藩主が江戸に滞在している期間も多く、国元と江戸の間で日常的に頻繁に連絡・報告を行う習慣がありました。更に幕藩体制の維持のため、幕府は様々な報告を日常的に求めており、何かあればすぐに仔細を幕府に報告する習慣も根付いていました。
現代において、年に一回、防災訓練の時に避難所の倉庫から無線機を引っ張り出してきて役所と連絡を取るような状況で、いざ災害時に本当に有効に機能しそうか、点検する必要があると思います。
また、現代は山の多くの峠道が廃道になって通行できなくなっており、交通網が寸断された時の対応は、昔よりも脆弱になっている可能性があります。
これら情報収集の的確さから被災状況を記した多くの絵図面が残っており、また善光寺の御開帳のため全国から参詣者が集まっていた特殊性もあって広く全国に災害情報が伝わったことが、この災害の特徴となっています。このことは災害の伝承という点で後世に貢献する大きな意味を持っていると思います。
② 早期にお救い米を放出した柔軟性
善光寺地震の約60年前に発生した天明の大飢饉の教訓により、飢饉に備えた備蓄「囲い米」制度が寛政の改革で老中松平定信により進められました。
この備蓄があったため、松代藩では早期にこれをお救い米として住民に提供したと言われます。
本来は飢饉に対する備えであり、災害時の使用は目的外使用にあたるため、行政としては二の足を踏む可能性もあります。もし目的外使用をしようと思っても、当時の幕藩体制を考えると、幕府の目を怖れ、いちいち幕府のお伺いを立てることになっても不思議ではないと思います。
ここからは全くの推測ですが、偶然にも藩主真田幸貫は寛政の改革で囲い米制度を作った松平定信の息子であり、親子で理念を共有していて、このような柔軟な対応に繋がったのかもしれません。
ちなみに真田幸貫は天保の改革期に老中となり、老中首座の水野忠邦を助ける重要な役割を演じ、江戸後期の名君の一人として数えられる人物です。
③ 今でいう帰宅困難者対策
地震発生の時は偶然にも善光寺の御開帳日で、遠方からも大勢の参詣客が訪れて混雑していたようです。帰れなくなった人も大勢いたようです。
このように人たちに対し、当然と言えば当然ですが救済措置が取られました。
東日本大震災あたりから帰宅困難者対策が叫ばれるようになってきましたが、古くからある問題です。単に、そのことに考えが及んでいなかっただけの話で、善光寺地震など過去の災害からしっかり学んでいれば、東日本大震災での東京の混乱はかなり小さくできたのかもしれません。
④ 誤情報、ニセ情報対策
古今東西、人間の本質なのかデマが流れるのは変わらないようです。善光寺地震でも余震が続く不安の中で流言飛語があり、行政は人心を乱すものとして取り締まりに乗り出しています。
伝達手法が限られる当時は、掲示板機能である高札に掲げていました。
現代はネットなど様々な情報伝達・情報交換ツールがありますが、システムのダウンや長期停電などを考慮すると、高札のようなアナログ機能も必須と思われます。現代の高札と言えば自治会の掲示板くらいですが、住民の数に対して余りにも数が少ないと思います。
いざとなったら住民が掲示を見ようと押しかけて混乱するので、平時は現状で良いとして、災害時にはベニヤ板で臨時の掲示板を町内のあちらこちらに増設し、平素から住民には臨時の掲示板を設置する旨を周知しておくべきだと考えます。
4.共助
災害は微妙な地盤条件・地形条件の違いや様々な偶然で、近隣でもかなり被害強度が異なる場合があります。阪神・淡路大震災の直後に被害調査で現地入りした時、断層と思われる幅20mくらいの一直線の帯内で全ての建物が崩壊・倒壊しており、帯のすぐ外側は大破はしつつも ほとんど建っているという光景を目の当たりにしました。
善光寺地震でも被害強度の濃淡はあった模様で、被害の大きな村に対し、近隣の被害の小さかった村が早急に食糧支援等を行ったと記録されています。被害の小さかった村と言えども被害はあったであろうし、先々の不安から食糧を貯えておきたいと思っても不思議はありませんが、それでも近隣を助けるという共助の概念がしっかり根付いていたようです。
江戸時代のことですから、各村の庄屋や名主と言われる大農家が指導者となっており、それら指導者の判断で迅速に行動したものと推察されます。
江戸時代は水利を巡って近隣の村と争うことも多かったのですが、同じ水を分かち合っているという意識もあったと思われます。また、村内でも共同で田植え等の農作業をしたり、用水路や排水路の草刈り等の作業をしたりすることが生きてゆくために必須で、共助の概念は身に沁みついていたのではないでしょうか? だからこそ、近隣の村を助けることも、ごく自然なことであったのかもしれません。
翻って現代では、公共サービスはじめいろいろな仕組みが発達しているため、税金さえ払っていれば共同作業をしなくても生きて行ける世の中となりました。便利で充実している反面、共助意識・運命共同体意識はかなり薄らいでいるのが実感で、科学技術は発達したものの、災害に脆い一面が出てきていると思います。
以上
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